野菊の香り

幽玄ワンダーランド

泣く男はカッコいい? 時代によって異なる、男の涙の意味

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「男が泣くのはみっともない!」って思ってる人はどれくらいいるでしょうか。

僕の高校の先生は
「男が泣いていいのは、人生で3回までだ。それは、生まれたとき、母が死んだとき、自分が死ぬときだ」と言っていました。
「男が泣くのはみっともない」って本気で信じている人だった。
「昨今の男はすぐにピーピー泣きやがって…」なんて嘆いてもいた。

まぁこの先生はいわゆる典型的な「昔のタイプ」な先生だったから極端な例だと思う。
でも少なくとも今でも、男がすぐに泣くことをプラスに考える人は少ないかなーと。
「男が泣くのはカッコいい!」なんてあんまり思えない。

平安時代は、涙を流せる男こそがモテた

しかし!1000年前は、今とは状況が全然違った。
平安時代の貴族とかは、「泣ける男こそかっこいい!」って思っていたんだと。
そしてなんと、男が涙を武器にして女を泣き落としていたらしい。

平中物語のなかにこんな話があるらしい(※1)。

…プレイボーイ主人公の平中は、いっつも水を入れた小瓶を持ち歩いていた。
そして、女性を落とそうというとき、ここぞという場面でそれを目薬みたいに使った。
泣いてるフリをしている平中を見た相手の女性は、「あぁなんて風情のわかる方なんでしょう…」なんて思って、平中にメロメロ。そしてbed in。
平中は、そんなことばっかりしてた。奥さんいるのに。
で、それを見かねた奥さんが、ある日、小瓶の中身を墨に代えておいた。そうとは知らずに平中はいつも通り懐に小瓶を忍ばせ、女性を落としに出かける。
そして、「さあ泣いたフリをするぞ」ってところでそれを使ってしまい……

というお話。

「泣くのは女々しい」と言われ育った僕からすれば、信じらんねーです。

涙の意味が変わったタイミングは?

じゃあなんで今、こんな価値観消え去ったのか?っていうと、1番の原因は日本が世界大戦で総力戦を経験したからだと言われている(※2)。
戦時中は「欲しがりません、勝つまでは」の標語に代表されるように、何事にも耐え忍び、感情を表に出さないことが良しとされた。
当時のこーいった道徳規範は『戦陣訓』に詳しい。

「感情を表に出さないのが美徳」っていう考え自体は昔からあった。
でもそれは、武士階級に限った価値観で、ほんの一握りの人しか持っていない価値観だった。
貴族や、農民とかの庶民にとっては無縁の価値観だった。
歌舞伎を観たことのある人はわかると思うんだけど、あれ庶民とかはわりと平気で泣くよね。でも、武士は泣かない。
武士の美徳は、あくまで武士だけのものだった。

でも、幾度かの戦争を経て、新渡戸稲造のいうような『武士道』っていう価値観は、着実に日本全体に浸透していった。
(当時は、「こんなんばかりが日本人の心やない!」って反発した岡倉天心が『茶の心』って本を出したりしてたけど)

武士道=日本人の思想
サムライ!ブシドー!カッコイイ!これこそ日本人の美徳じゃ!
ってみんなが思うようになった。

変化の兆しがみえる、現代での涙の意味

…んだけど、それが今ちょっとずつ変わってきているんじゃないかなあーと思う。
Jpopの歌詞なんかみてるとわかるけど、「泣くのがカッコいい」とまではいかなくても「泣くことを許可してやろうじゃねえの」っていう歌詞が増えてきた。

1番有名なのは多分、大事MANブラザーズの『それが大事』かな。

「涙 流してもいいよ それを忘れなければ」

他にも、東京カランコロンの『バツゲーム』

「泣きたいときは 泣けばいいんだよ」

とか。

他にも価値観変化が見て取れるものがある。
最近一部で話題の活動に『涙活』なるものがあるらしいんだよね。
友達の前とか職場で涙を流せない、泣くのが恥ずかしいって人たちが集まる。
そして、感動的な映画とかを観てみんなで泣く!

それを涙活と呼ぶらしい。すげー時代だな…。

でもまぁ、こんな風に時代は変化してきているんだ!ってことがわかると、ちょっとこれからが楽しみになる。
「涙の意味」ってこれからどう変わっていくんだろうって。

まとめると
【昔】「泣ける男こそカッコいい」とか、「別に泣くぐらいなんでもない」とか、「泣くのかっこ悪い」とか、階級ごとに価値観が色々あった
【ちょっと前】「泣くのかっこ悪い」に価値観一元化
【今】大っぴらには泣けないけど、まぁ、泣きたいなら泣いてもいいんじゃないかな…どうしようかな…。

みたいな!僕はまだ、みんなの前で泣くのは恥ずかしいし、なんか安っぽいドラマとかでは泣くもんか!なんて思ったりするんだけど。
でも、「泣く」ってことに対する考えがもっと多様化していったら、感情をもっと素直にバーンと表に出せる世の中になったら、今よりもっと情緒豊かで面白い世の中になるんじゃないかなぁと思っています。

ちなみに……今回、涙の意味について考えたことをだらだらと言いました。
で、その関連でいうと、「全米が泣いた」みたいな、涙の商品化、感情のパッケージ化が著しい。
ここらへんは、「個人的な涙」の価値・意味とは別物だと思ってて、また今度改めて考えてみたいと思ってます。


※1.『日本人の知らない日本語蛇蔵&海野凪子,2009
※2.『涙の歴史』アンヌ ヴァンサン・ビュフォー ,持田 明子 (翻訳), 1994

ドーキンス「利己的な遺伝子」をざっくばらんに

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利己的な遺伝子を読んだ。40周年記念版。
 
500ページくらいあったんだけど、産業で。
・個々の遺伝子は「複製を残すべし!」という動機から活動している。
・そのために「生き物」という「乗り物」をつくって操っている。
・でも人間だけがこの遺伝子の本能に抗うことができる(ミーム)。
 
発刊当時は、
「人間の行動は全て利己的遺伝子に支配されている!?なんてことだ!!」
という反応が結構でてきたらしい。
で、ドーキンスは繰り返し、
「いやそーいうんじゃなくてね、わかりやすくちょっとSFチックに書いてるけども」
みたいなことを言っている。
 
個人的にはしょーじきどっちでもいいなーと思ってて。
「利他的に見える行動でもなんでも、最終的には全部自分のためにやっている」
という意味で、全ての行動は利己的(ジコチュー)だ。
という考えなので、利己だの利他だのはなんでもいいかなと。
 
ボランティア(利他的!)でも、詐欺(利己的!)でも、
結局なにかしら自分に報酬があるから動いているわけで。
※ボランティアだったら「経験」とか「他人からの感謝」とか。
※詐欺だったら「目先の金」。
 
だから利他的か利己的かって話はあんま興味わかなかったんだけど、
この本から派生して面白いなって思ったのは下記の点だった。
 
遺伝子というプログラム
「(遺伝子)俺は俺を増やしたい!」その意思のもとに「生き物」という『乗り物』が作られ、その乗り物は遺伝子の目的を達成するような行動を取るよう設計されている。らしい。
「本能」とか「種の保存」とかじゃなくて「遺伝子」っていう単位で人間の行動を説明したのが面白かった。
で、生き物ってのは生き物の「乗り物」に過ぎないと。
「ジョン・コナーを殺せ」っていうプログラムをインストールされた、優秀なロボット(ターミネーター)みたいなね。
 
 
「◯◯シェパードの人たちは、クジラの遺伝子が組み込まれているのかもね!」
もちろんドーキンスが言った言葉じゃないです!
読書会したときに、そのメンバーの一人が言っていた言葉。
なるほどね、と。
遺伝子が近いほどその遺伝子を助けようとするらしいんだけども。
(イルカが人間をたすけたりするのも、ここに理由があるとのことで)
クジラの遺伝子が組み込まれた彼らとしては、
自分たちとめっちゃ近い遺伝子を滅ぼすとは何事だ、許せん、と。
彼らというか、彼らに組み込まれた遺伝子が叫ぶのだ。
納得!
そういうことにしておこう。
 
 
「感情の理由」を調べるのが好きなんだけど、この本はそれを知る一助になったので楽しかった。
なんというか徹底的に客観的というか、
人間が人間について語ったのではなく、
「遺伝子様」という支配プログラムが、自身の乗り物である「ニンゲン」を語った
みたいな感じで。
無機質な視点が実にクールでした(とか言ったらドーキンスに怒られそうだけど)。

スピッツを聞きながら

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「俺のすべて」

スピッツの曲で、僕はこれが大好きだ。

その曲の中には

歩き疲れて へたり込んだら崖っぷち
微笑むように 白い野菊が咲いていた

という歌詞がある。
この部分がどーしよーもなく好きで、ことあるごとに聞き返す。

ここの歌詞だけ見たら「バラードかな?」って思うんだけど、
全体的には「アバンチュール!」な明るい曲調。
で、その雰囲気のままこの部分を陽気に歌い上げる。

なんかこう、この歌詞っていろんな解釈・深読みができると思うんですよ。
「逃げることが正解なときもある」とか
「もうダメだ、ってときにこそ、輝くものが見えてくる」とか
「視点を変えてみよう」とか。

でも、僕が好きなのは、そんな軽い言葉を頭に思い浮かべることじゃなく。
解釈とかしてないで、ただただこのノリのイイ音楽に身を委ねるのが好き。

ええ曲じゃ〜〜

ということで、ここからブログタイトルをつけました。